中山千秋の略歴に基づく年表

【episode0】・・・生まれた頃

 1965年7月に旧中蒲原郡村松町(現五泉市)で2250gで誕生。
  ちなみに・・・最初の東京オリンピック、一巡目新潟国体、新潟地震はいずれも1964年のできごと

  参考:フェレットの生体が約2000gらしいです

【episode1】・・・幼稚園〜小学校

 ①幼稚園のころは線が細くて色白だったためにやたらと喧嘩を吹っ掛けられるが難なく逆襲に成功

 ②無事に小学校入学したが1、2年生の頃はまったく勉強せず授業中にしゃべり過ぎて教壇の横の先生の机の横に机をならべられるという大失態をやらかす

 ③3、4年生のころの担任の言葉「人の言っていることが全て正しいとは限らない ・・・先生だって人間で過ちをおかすものだ」という言葉に衝撃を受ける
  ちなみに・・・このころのアイドルといえば「天地真理」「ピンクレディー」など昭和のおなじみの方々であり今の方々には想像できないくらいの人気を実体験する

【episode2】・・・中学校

 ①中学入学と共に友人が兄の影響でバスケットボール部に入部するとのことで一緒にバスケットボール部に入部:後の人生に多大な影響を及ぼす

 ②1年生の時に近所で幼馴染だった女の子が全国模試で1位を取り、親からのプレッシャーの強度が増すが、逆に「人は人我は我」と悟りを開く

 ③2年生のころになると自分の興味が湧くものに集中して勉強するようになり成績も爆上がりしたが、当然のように幼馴染には追いつけず

 ④3年生の受験シーズンになると志望高校は学区内で一番バスケットボール部が強くて、なるべく実家から遠い普通科の高校というよく理解できない理由で選択
  ちなみに・・・このころ(1978年)YMOが活動を開始して友人が聴いていたアルバムを借り衝撃を受け、世間的には『なめ猫』などが大流行

【episode3】・・・高校

 ①無事に高校に入学するが、入学動機が他の学生とは若干の温度差があったためにすぐに落ちこぼれるも目的はそこでないために全く動じず

 ②高校2年生時になると人生最大のモテ期がくるが、やはり目的はそこでないために全く動じず、逆にそこがクールに映ったようだ
  (今思うととんでもなく勿体無い時代だったと懐古するも時すでに遅し)

 ③高校3年生になると受験のことが気になり始めるが、2年上の先輩と1年上の先輩がバスケットボールのスポーツ推薦で大学へ行ったため安易に考える
  結果的には顧問の先生とのボタンの掛け違いなどがありスポーツ推薦がもらえなく敢えなく失敗
  ちなみに・・・この頃は景気が良かったためお年玉だけで10万円は超えていた記憶あり

【episode4】・・・専門学校

 ①高校の友人が行く専門学校のパンフレットをもらい同じグループの別な学校に安易に入学するが、結果的には38年間勤め上げる礎となった

 ②1年生時に担任の講師から資格を取得すれば卒業できると聞き取り敢えず資格取得の勉強をして、早めに取得した

 ③2年生になると卒業の印籠を得たものと思いとにかく授業をサボりまくり、そのまま卒業
  ちなみに・・・プログラマーとしての需要が東京に集中しており面接で苦労した

【episode5】・・・社会人

 ①入社したは良いが自分の思いとは異なり、銀行ホストコンピューターのマシンオペレーターとして働くことになる

 ②3年目でマシンオペレーターを卒業し、受託計算業務のプログラマーへ転換

 ③29歳の時に7年くらい付き合った同じ歳の女性と結婚し現在に至る(写真あり)

 ④18年目で銀行ホストシステム開発の請負先で業務開始し、馬車馬のように働く

 ⑤36年目で会社が銀行本体に統合され銀行のシステム部員となる

 ⑥37年目で会社統合のバタバタで禿げるも約1年で復活(8割)
  ちなみに・・・入社当初はまだバブル時代であったため世間的にはケチと言われる銀行員の先輩方からも結構おごってもらえた

【episode6】・・・定年退職

 38年目で満60歳を迎え定年退職となったが、雇用延長を断り途方に暮れる
  ちなみに・・・妻の会社は65歳定年で現在も在職であり一家の大黒柱となる

【episode7】・・・グラフィックセンター新潟

 2025年11月27日(木)に無事?入校したものの四苦八苦


【現在地】